人の心に深く残る音楽には、派手さではなく、静かな力がある。
ピアニスト・作曲家の巨勢典子さんが紡ぐ旋律もまた、そのひとつだ。初めて耳にしたある楽曲は、聴き終えたあとも不思議なほど心に残り、気づけば彼女のオリジナル作品へと導かれていた。そこには、言葉では表しきれない情景や感情が一音一音に宿り、静かに聴き手の心へ語りかけてくるような音楽世界があった。
30年以上にわたり、自らの感性を信じながら音楽と向き合い続けてきた巨勢さん。その穏やかな佇まいの奥には、長い年月をかけて育まれた創作哲学と、音楽への揺るぎない想いがある。
あの旋律との出会いから年月を経て実現した今回のインタビュー。音楽はどこから生まれるのか。なぜ弾き続けるのか。そして、今なお多くの人の心を惹きつける理由とは何なのか──。東京・上野の静かな午後、その言葉に耳を傾けた。
巨勢さんにこうしてお会いできて本当に嬉しく思っています。本日はよろしくお願いいたします。
ありがとうございます。よろしくお願いします。
30年以上にわたって音楽活動を続けてこられて、ご自身のなかで昔から変わらないものと、時を重ねるなかで変化したものがあれば教えてください。
音楽の向き合い方は、本質的にはずっと同じで、変わっていないですね。曲の作り方もそうですし、作品の出し方もそうですし。私はずっと地道にやってきたタイプなので。変わったことといえば……部屋の在庫が増えたことですかね(笑)CDが増えて、部屋が狭くなってきました。
音楽が、“自分の外側にあった頃”
巨勢さんは、子どもの頃からピアノを続けてこられたそうですが、どんな距離感で向き合っていましたか?当時から作曲にも興味があったのでしょうか?
私はずっとクラシックの先生について、小学校から中学校、高校、大学まで、楽譜を見て教わるということしかしていなかったんです。だから、自分で曲を作るという発想そのものがなかったんです。
真面目なタイプなので、一生懸命練習するけれど、本当に心から楽しかったのかと思うところもあります。当時を振り返ると、「頑張っていた」という印象のほうが強いですね。
オリジナル曲を書き始めたのはいつ頃だったんですか?
30歳を過ぎてからです。
とても意外です。
それまでは作曲を勉強したこともなかったし、作ろうと思ったこともなかった。だから、自分の中からメロディが出てくるなんて思ったこともなかったんです。
イギリスへも留学されていたのですね。
日本で受けていたマスタークラスがあったのですが、そこには音大の優秀な学生たちも数多く参加していました。そのなかで出会ったイギリス人の先生が、私自身も気づいていなかった音楽の心みたいなものを見つけてくださったんです。
その先生のもとで学びたいという思いから、自費でイギリスへ渡りました。レッスンを受けて、いろんな人と出会いましたし、街を歩いたり、パブで飲んだり。振り返ると、生活全てがかけがえのない経験だったと思います。
帰国後は、どうされていたんですか?
地元の島根に帰ったんですけど、結局またクラシックを教えるか、コンサートをするか……「あれ、私、同じことを繰り返そうとしているな」って気づいたんです。それで、東京へ出てきました。当時はアルバイトや事務職をしたりしていましたが、生活もだんだんままならなくなってきて。

音楽が、“内側から立ち上がった瞬間”
最初にご自身の曲が生まれた瞬間を覚えていますか?
ある日の夕方、ピアノの前に座っていたときに、もう譜面も見えなくなるくらい周りがだんだん暗くなってきて。そのとき、どこからかふっとメロディが湧いてきて、指が動きだしたんです。3分か4分か……どう始まったのかも、どう終わったのかもよくわからない。でも、気持ちよくて。
それまで何かに縛られていたものから解放されたような。心地いい、そんな感覚でした。

とても自然に生まれたんですね。
そこからは曲が溢れるように出てきました。でも、それは私の自己満足であって、当分人に聴かせるということもなく、ずっと書き溜めて、録音していたんです。それから、ライブをする時に、当然私はクラシックをやる人間だと思われていましたが、「実は最近こんな曲が出てきたんです」と聴いてもらったら、周りの人たちにいいじゃない、と言っていただけて。1996年に1枚目のアルバムを出してからずっと、自分でCDを出してきました。
「出てくるものを待つ」
巨勢さんの作品には、タイトルからも自然の風景や季節の移ろいを感じる方が多いと思います。ご自身では、どのように捉えていますか?
よくそう言われるのですが、作るときに自然をイメージしているわけではないんですよ。生まれ育った環境が田舎だったこともありますし、日々見たり感じたりしたものは蓄積されていると思います。知らないうちに自分のなかへ入ってきたものが、身体の中で昇華されて、どこかで音になって現れているのだと思います。タイトルは完成した後に付けています。聴き返しているうちに、その曲の景色が見えてくるような感覚です。
曲は、どのように生まれ、形になっていくのでしょうか。創作のプロセスを教えてください。
私は即興で弾くことはほとんどなく、譜面に落とし込んでしっかり準備します。当初はレコーディングを回しながらフレーズを弾いてみたり、そのスケッチを後から聴いて「いいな」と思ったものを展開していったりしていました。
私の創作は、全部考えて作るというより、「出てくるものを待つ」感覚に近いですね。今回の『Still I miss you』という楽曲も、『I miss you』のオマージュのような気持ちで生まれた曲なのですが、ほとんど手を加えていません。とても自然にできた曲でした。
「自分が気持ちいい方向へ」
ご自身の音楽の創作において、ずっと変わらない「核」のようなものはありますか?
自分が気持ちいいと思う方向や音を選ぶことですね。理論的に考えるというより、「こっちへ行ったら気持ちいいかな」という感覚。音選びもコードも全部そうです。その作り方は昔から変わっていません。
その感覚は、NHKのドキュメンタリーなど映像作品の音楽を手掛けられるときにも共通しているのでしょうか?
そうですね。劇伴などで曲を書くときも、まずは映像や情報を読み込んで、その世界にしばらく身を置いてみるんです。そうすると、言葉では説明できないような感情や空気が自分のなかに残っていて、それがある時ふっとメロディになって現れることがあります。
考えて作るというより、出てくるものを待つ、そういう感覚は、自分の作品を作るときも、映像のために音楽を書くときも変わらないですね。
ピアノは「相棒」であり「彼女」
巨勢さんにとって、ピアノはどんな存在ですか?
相棒ですね。私はピアノを「彼女」だと思っているんです。彼女の前に座ると、そこから何かが生まれてくれる。
私の楽曲にはゆったりとしたものが多いのですが、音と音の響きが重なり合い、その余韻が次の響きを生んでいくような連鎖が好きなんです。だから、一曲を通してシフトペダルをほとんど踏み替えずに演奏できるような曲作りになっています。響きそのものが音楽を運んでくれるような感覚があります。
巨勢さんの音楽には、音と音の「あいだ」や余韻の美しさを感じます。その響きの先に、聴き手へ託しているものはありますか?
私の場合は「こう聴いてください」というのはないんです。「どうぞ」という感じですね。
スペースを空けておくので、その人なりに自由に受け取ってもらえたら嬉しいです。目を閉じて、自由に聴いてもらえたらと思っています。

サンプリングされた一曲について
Nujabesさんの『reflection eternal』でご自身の音楽が新しい形で生まれ変わったとき、最初はどう感じられましたか?
当時の彼のマネージャーさんから連絡があって。渋谷のカフェでご本人含めて会ったんです。正直、何が起きているかわからなかったですね(笑)
当時はクラブミュージックも“サンプリング“という言葉も知りませんでした。未完成の音源を聴かせてもらったんですけど、「音楽が切り刻まれているし、最初のメロディだけ……これが作品になるの?」と驚きました(笑)
驚きから、どのように受け止められたのでしょうか。
音色ですね。彼が選んでいる音が、素敵だなと思ったんです。私の反応に戦々恐々としていたみたいなんですが(笑)、聴き終わったあとに「いいですね」とお伝えました。
その後、ご自身の楽曲が新しい形で広がっていく様子をどのようにみていましたか?
後から彼の周りの方とお話しすると、彼自身もあの曲をとても気に入っていたと聞きました。
ただ、当時はまだインターネットもそこまで普及していませんでしたし、自分の音楽がどれくらい聴かれているのかは正直よくわからなかったんです。今でも「昔から聴いています」と声をかけてくださる方はいますが、数字や反応が私に直接届くわけではありませんから。
そんななかで印象に残っているのが、上海と北京のBlue Noteに呼んでいただいた時のことです。会場がいっぱいになるほど多くのお客さんが来てくださって、「知らない場所にも、自分の音楽を聴いてくれている人がこんなにいるんだ」と初めて実感しました。
「生きることに迷うことはあっても」
30年以上、音楽を続けてこられた時間を振り返ると、ご自身ではどんな道のりだったと感じますか?
よく友人とも話しているのですが、山の三合目をずっと真っすぐ歩いて、そのまま気づいたら山の反対側まで来ていた、そんな感じです。大きく方向転換した記憶もあまりなくて、ただ淡々と地道に続けてきた、という感覚です。
その道のりのなかで、立ち止まったり迷ったりすることはありませんでしたか?
生きることに迷うことは、もちろんありました。でも、音楽を作ることに関しては不思議と迷わなかったですね。それだけは、ずっと変わらずにありました。
『軌跡』というタイトルに込めたもの
最新作『軌跡』について聞かせてください。「軌跡」は「奇跡」にも通じる響きがあると思っています。
そうですね。ここまで続けてこられたこと自体が、ひとつのことだったのかなと思います。売れたとか売れないとかではなくて、ただやめなかった。それだけなんです。
振り返ると、なんで続けてきたんだろうと思うこともありますけど……やっぱり、ピアノが好きなんでしょうね。
これから先の時間を、音楽とどんな風に過ごしていきたいですか?
去年はとてもエキサイティングな経験をさせていただきました。全く違うジャンルのミュージシャンとのコラボは楽しくもあり、むしろ自分の演奏を見直す体験でもありました。今は、また少し静かにやりたいなと思っています。これまでと同じように、自分のペースで音楽と向き合いながら続けていけたらと思っています。

取材を終えると、上野の空気は少しひんやりとしていた。
穏やかに語る巨勢さんの言葉は、多くを語らずとも、そのひとつひとつに、丁寧に選び取ってきた時間の重みが静かに滲んでいた。自分のなかに生まれる音を信じて歩き続けてきた人。その選択の積み重ねが、気づけば遠くまで届いている。
誰かの記憶の奥に、ある日ふと浮かぶ旋律のように。だからこそ彼女のメロディは、国や時代を越えてなお、人の心に寄り添い続けている。静かに積み重ねられてきた時間は、気づけば一つの軌跡になっていた。
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Photography by Yusuke Abe 📷
Interview, Text & Edit by Saori Hayashida
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巨勢典子『軌跡』発売記念 ミニライブ & サイン会
日時:2026年9月5日(土)14:00 開演
会場:TOWER CLASSICAL SHIBUYA(タワーレコード渋谷店8F)
出演:巨勢典子(ピアノ)
内容:ミニライブ(観覧無料)/ サイン会
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巨勢典子:作曲・ピアノ
Nujabesの「reflection eternal」に「I miss you」がサンプリングされる。
2024年2025年 ヌジャベストリビュートライブツアーに参加。
NHKスペシャル「絶滅から救えるか 伝説のアムールヒョウ」音楽制作。
映画「私の叙情的な時代」(任書劍監督)音楽制作。ぴあフィルムフェスティバル技術賞・企画賞受賞。
NHKBSP「ニッポンの里山」音楽制作。
NHK「足元の小宇宙」楽曲参加。第40回放送文化基金賞・テレビエンターテインメント番組最優秀賞受賞。
千葉市民創作ミュージカル「夜空に咲く夢」千葉ミュージカルアカデミー「My name is Love」「Love is all music」音楽制作。
映画「花のあとさき」音楽制作。キネマ旬報文化映画賞受賞。
NHKスペシャル「新映像詩 里山」新潟編・阿蘇編のテーマ曲・挿入曲制作。イギリスAIB国際メディアコンクール 自然界部門・最優秀賞。ABUテレビ・ドキュメンタリー部門・ABU賞。日本ルミエール・ジャパン・アワード 8K部門 最優秀賞。アメリカルミエール賞。8K部門 最優秀賞。フランス ドーヴィル自然映像祭 金賞。他多数受賞。
2024年キングレコードリリースのヒプノシスマイク「fling posse」に谷川俊太郎とのコラボ曲「うそ」が収録。
2025年 DJリョウとユニットSonart結成。
4月 7インチレコード「Paird Reflections」リリース。
6月 ブルーノート上海・北京にてソロライブ。
2026年 Shing02とのコラボ「DECADES」リリース
26枚目のアルバム「軌跡」リリース。
HP http://kosenoriko.com

